小柴さんのお奨めに従って、私にとって第二の故郷となった富山の伝統産業のひとつであり、越中富山の反魂丹として有名な配置薬についてご紹介させて頂く。

  富山へ赴任したのは、東京オリンピックが開催された1964年の夏であった。社宅に入って引越し荷物を片付けていると、早速売薬さんが現れて薬箱を置いていった。家族とともに自然を楽しんだ13年間、単身で過ごした1987年からの5年間、この薬箱のお世話になった。

  300年前に始まった富山売薬は、富山藩の財政向上、製紙、印刷、金融など関連産業の発展、人材の育成などに大きく寄与した。また、売薬によって蓄積された資本は近代産業に投資され、売薬によって育まれた勤勉で進取の精神に富む県民性と相俟って、富山県を日本海側屈指の工業集積を誇るに至らしめた。

薬種商の館 金岡邸

  富山市の中心部から東へ約4kmにある新庄町の旧北陸街道に面して、富山県民会館分館金岡邸がある。往時の面影を残す金岡邸は、有力な薬種商であり、売薬商であった金岡家から富山県に昭和56年に寄贈されたものであり、県民会館分館として一般に公開されている。

  豪壮な母屋に足を踏み入れると、そこは明治初期の薬種商金岡本店であり、その裏が売薬展示室になっている。売薬の製造に関しては、原料、製造工程、製品、製丸機などが、売薬の流通に関しては、売薬商人の分布図、売薬人が携行した懸場帳、算盤、矢立、お土産にした版画や紙風船などが展示されている。特に印象に残ったのは、300年前から品質保証とカルテルの体制を築き、顧客に対して信用と信頼重視する経営方針で、日本全国に行商を展開した富山売薬人のバイタリティであった。

富山藩の成り立ち

  加賀藩の祖である前田利家は、1598年に家督を長子利長に譲って隠退した。 2代加賀藩主となった利長は、関が原の戦いの功によって徳川氏から加賀、能登、越中3国の領有を認められ120万石の大大名となった。加賀藩の3代藩主を継いだのは利家の四男利常であり、行政、文化面で数多くの業績を残した加賀藩随一の名君であった。利常は1639年に47歳で加賀100万石を長男光高に譲って隠退するとともに、次男利次を富山10万石に、三男利治を大聖寺7万石に分封した。

分封された富山藩の領土は、富山市から飛騨国境までの細長い地域であり、富山県の数分の一の大きさであった。10万石の富山藩は、全国約200藩の中で40番目ほどにランクされる比較的大きな藩であった。現在の富山県は、面積、人口、GDPとも全国の約1%であり、工業国日本の1%縮図県と言われている。
  分封された富山藩は稲作が経済の主力であったが、神通川や常願寺川の氾濫に苦しめられて豊かとは言えない状況にあった。初代藩主前田利次は富山城下町の整備、領内道路の開設などの基盤整備とともに、新田の開拓など農業主体の政策を行った。富山売薬の祖として名高い2代藩主前田正甫は、「他領商売勝手」を発布して産業奨励政策を推進した名君としても知られている。分封間もない富山藩に売薬、蚕種、八尾和紙という富山独特の産業が興っているのは、正甫の督励によるものであろう。

富山売薬の起こり

  前田正甫は薬に興味を持ち、薬草を栽培し自ら薬を調合したと言われている。正甫自身が腹痛を起こした時、備前の医師万代常閑の反魂丹が良く効いたことから、1683年に常閑を招いて処方の伝授を受けるとともに、印籠に入れて携帯するほど反魂丹に信頼を寄せていた。1690年、正甫が江戸城に登城した折、富山売薬の発端となる幸運な事件が起きた。福島の三春藩主が激しい腹痛に襲われた時に居合わせた正甫の反魂丹によって救われ、同席していた各藩主は反魂丹の効き目に驚いて、自藩でも販売してほしいと正甫に要請したという。

  当時は他領での商売が禁制されていたが、この事件を機に反魂丹の全国販売の端緒が開かれることになった。当初は万代常閑から反魂丹を仕入れて売薬行商が行われたが、正甫は反魂丹を藩の産業にしたいと考え、富山の薬種商松井屋源右衛門に命じて反魂丹の製造と販売を行わせた。行商を命じられた八重崎屋源六は、良家の子弟の中から身体強健、品行方正な者を選んで、諸国の大庄屋を巡ってくすりを配置させた。正甫の「用を先に利を後にせよ」との考えに従って、「先用後利」という信用経済の走りとなる独特の商法を編み出し、全国的な販売網の構築へと発展した。富山の売薬業界では、売薬を興した前田正甫、処方を伝えた万代常閑、製造を担当した松井屋源右衛門、営業を担当した八重崎屋源六の4人を、恩人として毎年感謝祭を行っている。

先用後利の起源 立山は古くから山嶽信仰の聖地であり、夏には全国の信者が立山登拝に集まってきた。シーズンオフには、立山山麓の衆徒は全国の信者を訪ねて、立山信仰を勧めるとともに、死者に着せる経帷子を病気除けの札とともに配置し、前年に使った分の代金を受領するという方法で資金を得ていた。この販売方法が富山売薬における先用後利の起源になったとも考えられる。経帷子は死者に着せる麻、木綿、紙製の白い着物で、背中などに経文などが書かれた。
江戸時代の富山売薬

  大名が領国を支配し、原則として他藩との経済流通を許さない領国経済の江戸時代において、富山売薬は全国における経済活動を許された数少ない業種であった。他藩にとって富山売薬の活動は、領民の健康には有益であっても、資金の流出と情報の漏洩の面からは好ましくない存在であり、諸藩からしばしば営業差止を受けた。

  1690年代に始まった富山売薬は京都などの市や祭りで反魂丹を売ることから始め、村肝煎を中心に地道な訪問販売の努力を続けた。その結果1750年代に入って富山売薬の名が全国に知れ渡るようになり、「仲間組」が組織されて富山反魂丹売薬の基礎が出来上がった。この頃には売薬人の数も千人を超えるようになり、偽物や不良品による信用失墜を防止するため、富山藩による統制や売薬人による自主規制が行われた。

  富山藩は当初は富山町奉行に、後に倹約奉行に命じて売薬の指導や統制に当っていたが、1816年には反魂丹役所を設置して、売薬を富山藩の銘品として保護育成に乗り出した。その背景には当時の富山藩の財政難があった。1850年頃の富山藩の禄高は10万石(実高14万石)であったが、年貢米収入は2万石程度(約2万両)に過ぎなかった。この他に海産物などから約1万両の税収があったが、江戸藩邸および富山城下での支出は3万両を超えて赤字状態が続いていた。富山藩が売薬を保護する代償として賦課した御役金は3千両と藩収の15%に及んだ。

  反魂丹役所の主な業務は、売薬人の統制管理、薬種の仕入れおよび製薬の管理、資金融資、他藩との交渉などであり、これらの実務は有力町人から任命された肝煎、調理役、吟味役などが半官半民の形で遂行した。反魂丹役所による奨励策として、資金の貸与や、天災や差し止めなどに応じた税の減免などが行われた。統制面では売薬の信用を落とさぬよう、特に品質管理が重視され、原料の吟味、製法の統一、厳格な品質審査などが行われ、売薬人に対しては旅先における信用の維持のために「旅先諸心得」を制定して行動を規制した。

  売薬人は旅先の藩毎に「向寄」を、地域別に「仲間組」を結成して富山藩や旅先藩との交渉に当り、営業権の確保や利益の擁護に努めるとともに、「仲間示談」を定めて自らの行動を規制した。仲間示談には、公儀の法令および仲間のおきての遵守、喧嘩や賭け事や歓楽街への立入り禁止、仲間の相互援助の義務、旅立ちの日や定宿の規制、売薬専業の徹底など、旅先における売薬人の信用を保つための自己規制および罰則が厳しく定められていた。また、過当競争を避けて利益を確保するために、重ね置き(他者の顧客へ配薬)の禁止、販売価格の協定、新懸(新規顧客の開拓)の制限などの決まりが厳重に守られた。

  売薬人の顧客の地への経路は、初めは北陸道や飛騨街道を用いる陸路であったが、江戸後期には富山湾の諸港から北前船を用いて、北は蝦夷松前、南は馬関を経て瀬戸内や薩摩、琉球まで文字通り全国各地に拡大した。中でも中部地方が最大の活動領域であり、関東、東北、九州がこれに次いだ。

  当時は藩を越えて商売することは厳しく規制されており、他藩の商人が商売で得た財を藩外へ持ち出すことは禁じられていた。しかし、越中の薬がよく効いて領民の命を救ったことから、全国の藩とも富山の売薬人には関所の通行を許可していた。歴代の藩主が反魂丹役所を運営して売薬の保護育成に取り組んだ結果、幕末には3000人の売薬人が他領から20万両の現金を持ち帰るまでに発展した。

帳主を目指して

  売薬人は富山の薬種屋から反魂丹など数種の薬を仕入れ、向寄や仲間組ごとに集団で顧客の地に向けて旅立った。帳主(ちょうぬし)と呼ばれた売薬人の親方は、必要に応じて連人(つれにん)を雇って同行させた。売薬人には読み書き算盤はもちろん、薬学や医学の知識に加えて商業の素養が必要であり、江戸時代の農民や町人の次男、三男にとって憧れの的であった。柳行李を背に全国の顧客のもとへ敢然と散開して行く売薬人の雄姿に、若者たちは帳主を目指して勉学に励むとともに連人として奉公に励んだ。
  交通網が整備されたとは言え、江戸時代の旅は困難であった筈である。売薬人は殆どが真宗信者で懐や行李に小さな仏像を納めて、「仏が見てて下さる、決してひとりじゃない」と心に念じて旅をしていた。売薬についても「仏の願いに従って顧客に薬のご利益を与え、顧客は病気快癒のご利益に対する感謝の気持ちとして代金を支払う」と考えていた。こうした商法は、顧客との間に「互いに利を分かち合う真心と感謝の結びつき」をより強固にし、人間関係が永続するという効果を齎した。
懸場帳 売薬人が廻る地域を懸場と呼び、顧客データが懸場帳である。懸場帳には顧客の住所、氏名、配置薬の銘柄、数量、前回までの消費高と集金高、訪問日が明確に記録され、売掛台帳であると同時に顧客の健康台帳でもある。懸場帳は長年の情報の集大成であり、営業権が付いた財産であって、売薬人は肌身離さず持ち歩いた。懸場帳の価値は、年間売上高に配置してある薬代を加え、さらに2-3割の暖簾代を加算するのが一般的であった。売薬人が顧客から深い信頼を得ていた場合や、懸場の将来性が高い場合などには、最大5割もの暖簾価値が付いた。昨近の懸場帳の相場は何百万円とのことである。
売薬の齎したもの

  売薬は多額の現金を領外から持ち帰って藩と町を潤したほか、製紙、印刷、金融など関連産業を発展させた。さらに、明治に入って売薬によって蓄積された資本が近代工業に投資されて、富山県を工業県に発展させる素地を提供した。また、売薬人への憧れは、教育の機会を提供し、厳しい業務や外部の情報を通じて、勤勉と忍耐、進取と挑戦の精神に富んだ県民性を育んだ。

現金収入 江戸時代には領外からの現金収入のある藩は殆どなかったが、富山藩では売薬人が他領から多額の現金を持ち帰って藩と町の経済を支えた。 明治4年の富山町の人口は約4万5千人で、東京、大阪、京都、名古屋、金沢、仙台、福岡、広島に次いで全国第9位であった事実は、富山町の隆盛を物語っている。 当時、富山市の人口の約8割が売薬やそれに関連する紙袋、木箱、みやげ品、印刷などに従事していたと推定される。

関連産業 売薬とともに発展した関連産業として、製紙、印刷を挙げることができる。和紙は薬の包み紙、袋紙、預け袋紙、効能書やみやげ用の版画、紙風船、懸場帳用紙に用いられ、紙袋、効能書、版画、紙風船には木版刷り印刷が行われた。この流れを引いて、現在富山県では印刷業、パッケージ業が盛んである。

富山の工業化 明治期に入ると、売薬業者は長年培った知識や蓄えた資本を金融をはじめ鉄道、電力、製薬、繊維、製紙、出版、印刷、運輸、保険等などの事業に投資した。地元企業の多くは2代遡ると薬種商との話もあるくらいに、薬種商は富山の工業化に大きく貢献した。北陸電力の前身である富山電燈会社は、薬種商の金岡又左衛門によって設立されたものである。富山駅の北側には重厚な北陸電力本社と並んで、瀟洒なインテックのビルが聳えているが、インテックは1964年に富山計算センターとして、金岡家5代目当主によって創設されたものである。

教育 売薬人には読み、書き、算盤のほか、顧客地域の地誌や歴史、懸場帳付けの計算力、薬の調合に関する知識が要求され、反魂丹役所の帳簿類の作成には高度な計算能力が要求された。子弟を薬業関係の職に就かせるべく、寺子屋による幼少時期からの教育を重視する土地柄となった。現在でも富山県は高校進学率全国一が示すように熱心な教育県である。売薬人が共同で富山市の補助を受けて明治27年に創立した共立薬学校は、わが国で初めての薬剤師養成学校であり、県立専門学校、富山大学薬学部を経て、昭和50年に開学された国立富山医科薬科大学の基礎となった。

県民性 他領における困難な売薬の業務を通じて、フロンティア精神、勤勉性、進取の精神が育まれ、近代工業導入の素地が形成された。また、全国の情報に通じていたことも、進取の精神に影響しているであろう。
富山では呉東(ごとう)、呉西(ごせい)と言う言葉をよく耳にする。富山平野のほぼ中央を南から北へ海抜100mの呉羽丘陵が走り、その東側が呉東すなわち富山地区であり、西側が高岡地区である。化学工場も呉東呉西にほぼ均等に分布していて、業界の会長の選出になどにおいても今期は呉東、来期は呉西などと互いに気を遣っている。富山の人々にとって、呉西は加賀100万石の一角であるのに対して、呉東はわずか10万石の富山藩であり、政治と文化においては呉西と競争すべくもなく、人々は経済で呉西を凌駕しようと努力したのであろう。富山売薬の歴史もこれを物語っており、現在の持ち家率日本一、有数の教育県もまた育まれた競争心の結果と考えられる。
明治以降の配置薬

  明治政府は全ての面において、西洋化で一新することを基本政策とした。医療、医薬の面でも同様であり、危害を生じる虞のある薬を禁止するために、明治3年に売薬取締規則を制定して売薬の取締りに乗り出した。当時は、家伝、秘方、秘薬などと称し万病に効くといった類の薬が野放し状態であり、富山売薬も同様なまがい物と做なされて、偏見を持って取り扱われた。
 無用な和漢薬を排除して西洋医薬の発展を図るため、16年から売薬印紙税が課せられた。売薬印紙税は定価の1割以上の重税であって、富山の売薬業界は3年間で生産額が1割以下に激減するほどの大打撃を受けた。売薬印紙税は大正15年に廃止されるまで、44年の長きに亙って売薬業界を苦しめた。

  政府は明治10年に薬の品質確保を目的として売薬規則を制定して、売薬業者を製薬業者、請売業者、行商人の3種に区分し、製薬業者が品質に対する責任を負うものとし、続いて大正3年には売薬法を公布して、薬剤師、医師以外の薬の調製を禁止した。それまで売薬人が各自行っていた自宅での製造が禁止され、薬の処方を公開することも義務付けられた。
  こうした政府の法整備の動きに対応して、売薬人は明治9年の調剤所広貫堂の設立をはじめ、次々と共同出資による会社を設立した。明治27年には富山市の補助を受けて富山薬学校を設立した。これら富山売薬人の努力の結果、明治19年には売薬印紙税が軽減され、大正15年には完全撤廃された。

  明治、大正時代に入って売薬は一般家庭にも配置されるようになり、売薬さんの数も急増して富山売薬の名は文字通り日本全国に鳴り響くようになった。売薬さんの多くは薬を単に商品と考えるのではなく、嫁や養子の相談、農業の新技術の紹介、薬の使用法や軽い病気の手当などのアドバイスを通じて、顧客との親密な付き合いを大事にしてきた。

  富山の種籾は多収量で病害虫に強いと言われ、1750年頃から売薬人が各藩の得意先に斡旋を始め、現在でも富山県は60%を越えるシェアを持ち種籾王国と言われている。水田裏作の緑肥として広く栽培されたレンゲを東北地方へ、馬耕犂を米沢へ伝えたのも売薬人であった。また、良質な八尾の蚕種も全国に懸場を持つ売薬人が販売に協力した。

  関東大震災の時には、売薬さん自身が配置薬を一瞬にして失う大損害を受けたにも拘らず被災した顧客を訪ねて薬を届け、大正から昭和にかけての凶作や不景気で代金が払えない家にも薬の配置を続けた。このような努力の結果、富山売薬は昭和10年頃には13,000人余りの売薬さんを有して、県内の鉱工業生産額の首位を占めるに至った。当時、富山市内の3軒に1軒は売薬と関係のある職業についていたと言われている。

  戦争が激しくなるにつれて物資や人員が不足し、企業整備令による売薬業者の合併や、奈良、滋賀、佐賀の売薬業者と合わせた地域別の割り当て、置き薬の一戸一袋制による代々の顧客からの置き薬の引き上げなど、多くの苦渋を強いられた。また、国策に従って、明治22年の韓国を皮切りに、中国、樺太、台湾、ハワイなど邦人の移住した主要地域の殆どに進出した海外売薬も敗戦とともに全てを失った。

  昭和22年に戦時統制が撤廃され売薬を自由に製造し配置できるようになったが、数年間は激しいインフレが先用後利の富山売薬を苦しめた。しかし、戦後の衛生状態の悪さから駆虫剤などが全国で求められ、昭和25年には7,600人もの売薬さんが柳行李を背負って出掛けて行った。昭和30年の薬事法改正においては、配置売薬の形態の存続の是非が討議されたが、富山売薬人の努力によって「医薬品配置販売業」として法律に規定された。こうして戦後も富山売薬は全国の家庭に受け入れられ、昭和36年には売薬さんの数は11,700人と戦後最高を記録した。

売薬さんから配置員へ

  2001年における全国の配置薬生産額は540億円であり、その中で富山県の生産額は280億円(52%)と第2位の奈良県(14%)、三重県(11%)を大きく引き離して首位の座を保っている。配置販売業の従業員数は、全国では昭和35年頃から今日までに約2万人から3万人に増えてこの数年も増加傾向にあるが、富山県の売薬さんの数は平成12年には2,500人を割り込み、ピーク時の5分の1以下にまでに激減している。その要因として国民皆保険、大手製薬メーカーやドラッグストアなどとの競合、売薬さんの現地居住と企業化が挙げられる。

  昭和36年に始まった国民皆保険制は国民にとっては福音であったが、医者へ行けば保険で只同然で薬が貰えるの風潮が生まれ、医薬品需要を売薬などの大衆薬から医療用医薬品に大転換させた。昭和20年代後半から始まった農協による家庭薬の配置は、北海道、山形、愛知、岐阜、高知などで急速にその勢力を伸ばしている。ひとり帳主の売薬さんが一軒毎お得意さんを廻る先用後利の商法は、組織力を生かした大量仕入れ、大量販売の商法には対抗できなくなっている。大手製薬会社のテレビや新聞などによる大衆薬の宣伝が盛んになり、またドラッグストアチェーンの急増や規制緩和によるコンビニエンスストアでの医薬品販売自由化など、配置薬業界を取り巻く環境は年々厳しさを増している。

  昭和30年頃から旅の多い従来の配置販売を嫌って、また経営の効率化を目的として、顧客の地に移り住んで配置販売に従事する現地居住が進行してきた。更に移り住んだ配置販売業者が現地で会社を設立し従業員を多数雇用して、富山からの売薬さんと競合するに至っている。これが富山県の配置薬従業者数が激減したにも拘らず、全国の従業者数が変わっていない理由であり、ひとり帳主の売薬さんから配置販売会社の配置員への変換が急速に進行していることを物語っている。富山の売薬さんは激減したが、大手配置販売会社の経営者の7-8割は富山出身者と言われており、越中富山の反魂丹は時代のニーズに合わせて変化しながら300年の伝統を受け継いでいる。

参考文献

富山の売薬文化と薬種商       富山県民会館
富山県の歴史              坂井誠一
平成13年度県民カレッジ
薬種商の館 http://www.kenminkaikan.com/kanaoka/kanaokaindex.htm
売薬史http://www.pref.toyama.jp/sections/1015/motto/04_sangyo/01_baiyaku/main/01.html
富山のくすり屋さん http://www.chuokai-toyama.or.jp/seiyaku/
広貫堂 http://www.koukandou.co.jp/index2.html



2005年6月15日
                                  大塚 哲哉

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