梅田さんの投稿に触発されて書きました。私は指揮者のリーダーシップ論をするつもりはありません。一クラシックファンとして、指揮者の感想を書きたいと思っています。

   難聴が進んできて、今では音楽がうまく聴けない。例えばラベルの『ボレロ』だが、これを聴くと、初めのオーボエなどの金管楽器で始まる部分は聞こえない。全く同じ旋律が各楽器につながれてしだいに高まってくるわけだが、全楽器が奏でる部分にならないと聞こえないのでは、この曲の面白みは理解できない。当然、エマニエル・パユが演奏するドビッシーの『牧神の午後への前奏曲』的な情緒豊かな静かな音楽などを楽しむことはかなわない。

   音だけではだめなので、最近ではTVまたはDVDでの映像があるもので音楽を聴いている。(見ているの?)演奏会の映像は、その時演奏している楽器をたんねんに映してくれるし、指揮者の身振り手振りも映してくれる。その映像を見ながら昔聴いた音を勝手に再生している。その意味では指揮者のボデーランゲージはオーケストラのメンバーだけでなく、私にとっては重要だ。

   指揮者の本来の目的は、音楽の解釈でありオーケストラの統一なのだろうが、彼のジェスチャー、ボデーランゲージは聴衆にとっても一つの見物だと思う。その意味で私の指揮者に対する感想を述べてみたい。

小沢征爾
   それでなくても大きな頭に、お祭りの獅子舞の毛のようなもさっとした毛を着けているので、一層顔が大きく見える。そこで髪をふり乱して指揮している状態は、まるでお祭りで獅子が舞っているようだ。世界の小沢なのだがこのスタイルだけはいただけない。どうにかならないものだろうか。

小林研一郎
   ベルリオーズの『幻想交響曲』は彼の十八番らしいが、これを演奏しているときの彼は、多分一番彼本来の姿に近いのだろう。首までかかる長髪を振り乱し、目を細めて振る姿は自己陶酔以外の何物でもない。恥ずかしげもなく、大衆の前にあのような姿を晒せるのが芸術家なのだろうか。

サイモン・ラトル
   私は今でも2001年(?)大晦日に行われたベルリンフィルのジルベスタコンサートの『カルミナ・ブラーナ』の録画を大事にしている。彼の指揮ぶりも一見自己陶酔型に見えるが動きが計算されている。過度に陶酔することのない大きなジェスチャーは華麗の一言に尽きる。

ワレリー・ゲルギエフ
   カーネギーホールで見たショスタコの『七番』を指揮するゲルギエフは、実に普通の指揮者だ。こまめに動かす指が何らかの情報を団員に伝えているのだと思われる。オペラも指揮する彼は、オペラ指揮者のともすれば劇的表現に陥りやすいが――ネルロ・サンテ――彼は落ちることなく、交響曲もたんたんと指揮する。大きな身振りを示すわけではないが、魅せられる指揮者だ。あの面構えだろうか?

準・メルクル
   今一番好きな指揮者は準・メルクルだ。彼の指揮ぶりは素直に感情を現している。そのジェスチャーには誇張がなく、その素直さが実にすがすがしく、彼の感情表現を素直に受け取ることができる。ドイツ人を父親とするハーフだが、その容姿もかなり影響しているかもしれない。

映像技術について
   最近の映像技術の進歩は目を見張らせるものがある。特にNHKの音楽映像は素敵だ。例えば楽器を映しだす時にも、何かがキラキラと輝いている。ホルンをアウト・フォーカスに捉えているわけだが次第にフォーカスが合ってくるとホルンであることがわかるといった具合だ。また、オーケストラに重ねるようにしてコンダクターを捉え、オーケストラのダイナミックさを表現している。カラヤンの映像は今やあふれているが、撮られているのはカラヤンばかりだ。これは、彼の意図だと思われるが、指揮者+各パートの繰り返しで、全体的な把握にかけるのでオーケストラとしてのダイナミックさは失われている。古い映像はおおむねこのようだ。カラヤン初来日の映像で最も印象に残っているのは、あの若い奥さんだ。モデルらしいスリムな体にさわやかな艶を感じた。先日カラヤン生誕100年の映像を見ていたら普通のおばさんになっていた。


2011年3月2日
椎名 利

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