高校生の頃から歴史に興味があった。この4年間に凡そ200冊の本に目を通したが、その中の3分の1は歴史関係の本であった。考えてみると歴史教科書が天照大神から始まった我々の時代には、終戦を迎えて10年に満たない間は日本現代史の筋書きはまだ模索中であったに違いない。学生時代の日本史は精々明治維新までで、現代史は教室で教えられた記憶はない。現在でも中国・韓国の理不尽な要求を言挙げするまでもなく、昭和史に対する解釈は必ずしも定説があるとは言い難い。同時代史としての昭和史こそアマチュアとして取り上げるには格好のテーマであろう。

    しかし昭和時代の流れの源流ははどこにあるのだろうか。これまでの雑駁な知識から、何となく昭和の日本を駄目にした張本人は山県有朋であるという漠然とした先入観がある。この仮説を証明しようとするのも歴史を読むときの態度の一つかもしれない。とすれば明治維新・大政奉還くらいまで時代をさかのぼらなくてはならない。考えてみると、日本人が日本という国について考え始めたのはペリーの黒船来航以来であり、そのエポックを画するものが明治維新であって、一つの現れが岩倉具視を長とする岩倉視察団である。この使節団は明治4年から約1年10ヶ月をかけて米国から始めて米欧合計12カ国を視察し、当時の欧米先進文明をつぶさに調査したものである。視察団の企画にはワグネル先生が積極的に協力し、正使特命全権大使に岩倉具視、副使としての木戸孝充、大久保利通、伊藤博文、山口尚方を始めとして、視察団員48名、その従者を含め100名を越す大掛かりなものであった。津田梅子ら最年少は9歳の少女達が留学を命ぜられ、視察団と同じ船でアメリカへ向けて旅立っていった。視察報告書は、各分野での詳細はそれぞれに報告されたが、全体の報告書としては明治10年に「特命全権大使米欧回覧実記」として公刊された。当時3500部が刊行されたという。私は浅学にしてこの回覧実記のことはこれまで知らなかったが、1977年から1982年にかけて久米邦武編田中彰校注版5冊が岩波文庫青141として刊行されている。

    この報告書を纏めた久米邦武(天保10年―昭和6年、1839−1931)は、九州佐賀藩の出身、幼少から儒学漢籍の素養が深かった。藩校弘道館で大隈重信と知り合い終生の交友を保ったが、1862年江戸の昌平坂学問所書生寮に入り、翌年学識を買われて藩主鍋島直正の近習となった。岩倉視察団では記録係として全行程に参加し、帰国後幾明治10年にこの「回覧実記」を刊行したものである。その後いくつかの官職を重ねた後修史館の編集官となり、帝国大学への移管に伴い帝国大学教授となった。新設された国史科では日本古代史に近代実証史学を確立しようとしたが、水戸の「大日本史」や頼山陽「日本史」の流れを汲む国粋主義的日本史学者の反発を買い、帝国大学を追われ早稲田大学の教授となった。目黒駅前の久米ビルに久米美術館があり、長子久米桂一郎の絵画とともに関係資料が展示されている。

    インターネットで調べてみると、この「回覧実記」および執筆者久米邦武については岩波文庫版の刊行以来、先人達の多くの研究がある。回覧実記の内容とその意義についての一通りの知識なら、これらの仕事をつぶさに読むことにより、より効率的に、且つより詳しく知ることが出来るであろう。しかしアマチュアとしては二次文献に頼ることは潔しとしない。原文はカタカナを主として難解な語句を駆使し、総計1500ページと大部であるが、オリジナル文献に挑戦してみることとした。用いたテキストは前記岩波文庫の第15刷(1997年)である。流石に難しい漢語熟語が連綿として続き、カタカナを主体とする文体は読みにくい。サンフランシスコに上陸してからのことが日記風に記述されているが、第一冊はアメリカに充てられている。先ずアメリカ合衆国の歴史、国土、産業の概要などが総括的に述べられ、サンフランシスコ上陸後の歓迎の様子、工場見学の様子などが淡々と綴られている。意外であったことは度量衡、為替レートなどは当時の精度で換算されており、資本主義社会の仕組み,慣習,問題点などほぼ正確に把握されている。400年の鎖国を経たとはいえ、明治初年には当時の世界情勢は正確に、また、詳細に日本に伝えられていたようである。
以上


2005年7月12日
                                  内田 安雄

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