戦後60回目の8月15日が巡ってきた。当時私自身は国民学校5年生で集団疎開先の信州伊那におり、東京へ帰ったのは11月になってからであった。新宿駅から自宅へ帰る道すがら焼け跡の凄まじさに目を見張ったことを覚えている。東京へ帰って家族と一緒の生活へ戻ったものの食糧難は大変であった。配給やヤミ食糧では足りず、焼け跡に家庭菜園を作って不完全ながら自給自足の生活であった。気の遠くなるようなインフレで銀行預金が封鎖され、新円として新しい10円札が行き渡るまでは旧紙幣にシールを貼って通用させたのは21年に入ってからのことか。記録によると21年5月から第一次吉田内閣が発足したが政情改まらず、野坂参三氏らの帰国を機に共産党の組織化が進み昭和22年2月1日に予定されていた全国ストライキが総司令部の命令で急遽中止となった。ラジオを通じて文字通り声涙下る中止命令が放送されたことも覚えている。。今考えると1945年8月をはさんだ前後5年間は日本の国にとって未曽有の危機の時代であった。高まる本土決戦の不安から戦後の食料・物資の不足・未曽有のインフレ、財政・企業・家計の三拍子そろった赤字の危機をも乗り越えて昭和40年代までに日本は一流国の舞台の上に上がってきた。これは当時の日本国民のもっていた潜在的な能力が実を結んだものであるが、それはどのような力に拠ったものであったのか。主観的な抽象論ではなく、具体的に状況を浮き彫りにすることが出来ないであろうか。このようなことを考えながら昭和史の本を探ってみた。私共の年代では日本史の中でもこの時代は高等学校までの授業では習っていない。戦時中は勿論タブーであったし戦後になっても充分な資料は入手し難く当時の日本の国力をわずか15年の後に一流国の仲間入りをさせたそのシナリオを明らかにすることは難しかった。

    昭和12年第一次近衛文麿内閣が発足したが、その前年昭和11年に近衛は昭和研究会という組織を立ち上げた。これは近衛が政権の担当を固辞できなくなることを想定して政策を決するための組織、今流に言えばブレーンであった。後藤隆之助が主宰し、風見章、蝋山政道、有沢広巳、笠信太郎などの学者や政治家、思想家、官僚、ジャーナリストなどを含むひろい範囲の人材を集めたものであった。この組織は後に国民の総意を一つの方向へ向かせるための大政翼賛会に発展したものであって、現在でも正当な評価を受けていない向きもあるが、発足当時は大正デモクラシーを推進した国際的な広い視野を持つリベラルな立場の人を集めた集団であった。大陸問題をどうするかは大きなテーマであって研究会のリベラルな立場の人達と軍部の対立する微妙な課題であったが、昭和13年になって次世代リーダーを育成するということを目的として昭和塾という組織が立ち上げられた。これを推進したのは主として法政大学教授でシナ問題の専門家であった平貞蔵と国粋主義的大陸観に捉われないで一貫した科学的合理主義、国際的視野の下に人材を育成しようという理念の下に、実業家小林采男が全面的に資金を提供して設立した自由主義的性格のものである。時あたかも満州において関東軍の侵略行為が実績として積み上げられつつあり、このような理念は軍部の意向に対立するものであった。しかし昭和研究会でも大陸問題の専門家を育成したいというニーズがあって設立に関わったため、昭和塾は微妙なバランスの上に運営されることとなった。当初から内部での意見の食い違いが深刻であり右翼勢力からの干渉も激しく、昭和15年には専任講師格の笠信太郎が欧州へとはなれ、昭和16年には中国問題の専門家である尾崎秀美がゾルゲ事件に連座したとして逮捕され、昭和17年には言論統制事件である横浜事件に巻き込まれて昭和塾は当初の理念が霧散して解散させられてしまった。しかし塾生として20台前半の大学生、会社員、官僚など220名を超える人たちが昭和塾に学んだ。これらの人たちは結束が強く、残された名簿を見ると大来佐武郎、河合良一、根津嘉一郎、武田豊、など、官学産各界で第二次大戦後の収拾と戦後復興を支えた人たちが多くみられる。

    昭和16年9月、当時の企画院は若し日本が米国などと開戦したとしても、その軍事行動を6ヶ月で終了すれば日本の生産力はその後徐々に上昇するという見通しを発表した。そしてこの楽観的見通しによって12月日本は太平洋戦争に突入した。当時は統計データは充実しておらず、このような経済的見通しを行うことは極めて困難であったが、このあまりにも楽観的な見通しに一部の若手官僚は危機的疑問を持ち、当時の大東亜省総務局調査課に籍を置く大来佐武郎を中心に密かに開戦から昭和17年後半までの実際の戦略物資の生産高データを調査した。その結果実際の生産高は開戦以来急激に低下していることが分かった。大来らはこの結果を当時の官房長官風見章に報告したが、戦線の拡大を図る軍部を抑えることは出来なかった。しかし、事態の進展と共に日本の敗戦は必至となって政府内の一部で終戦後の日本経済復興策を検討する動きが出てきた。すなわち昭和19年10月に大蔵省では石橋湛山が中心となって大河内一男、中山伊知郎、荒木光太郎などの学者や工藤昭四郎(当時興銀調査部長)などによる「戦時経済調査委員会」なるものが作られ、実際には戦後の復興を如何にするかの計画立案に携わった。一方においてやや遅れて大東亜省では杉原荒汰局長を中心に昭和20年6月ごろ「日本自活方策研究会」の構想が固まった。これは連合国の潜水艦によって大陸と日本との交通が遮断されたときには大陸からの物資に頼れず自活しなくてはならないとの表向きの主旨で、実際には終戦を目前として戦後の種々の問題を検討しようとしたものである。参画したのは長老格に大内兵衛(当時日本銀行)を据え、纏め役に大東亜省の大来佐武郎、後藤誉之助ほかの昭和塾に学んだ30歳代の若手があたった。第一回目の会合を8月16日に開催することをきめたが、その前日8月15日にポツダム宣言受け入れの玉音放送があり、太平洋戦争は終結した。戦時経済研究会は外務省特別委員会通称戦後問題研究会として戦後経済の建て直しのために活動することとなった。

    当時海外からの報道では戦後処理として日本を農業国の段階に押し戻そうとする意向が伝えられた。昭和20年9月にはマッカーサー率いる進駐軍がワシントンの定める「非軍事化」と「民主化」という対日占領方針を発表し、更に矢継ぎ早に5大改革(婦人解放、労働者団結権、教育の自由化、専制政治の廃止、経済の民主化)を指示した。12月7日に来日した対日賠償団彼の考え方は、賠償を生産物で取り立てると日本に生産能力を与えることになるので、既存生産設備(軍事工場に限らず発電設備、ボールベアリング工場、硫酸アンモニアなどの重化学工場などを含む)を撤去し、中国など日本が戦争によって荒廃せしめた東南アジアに移設せしめることにより賠償を取り立てようというものであった。これに抵抗する日本としての論拠はポツダム宣言にある「実物賠償の取立てを可能ならしめる産業を維持することを許さるべし」と「日本国は将来世界貿易関係への参加を許さるべし」という条文であった。しかし荒廃した日本国内の復興と旧軍人を初めとする多くの海外引揚者を受け入れて戦後日本の経済を立て直すには、重工業化の産業構造が不可欠であり日本の工業国化は必至であった。戦後問題研究会、正式には外務省特別調査委員会では戦後の混乱の中から日本経済を立て直す具体的方策を探るべくその思想的立場を問わずに各界の専門家を集め、議論を重ねた。そして昭和20年12月には「日本経済再建の方途」という中間報告を出し、翌21年3月には「日本経済再建の基本問題」(改訂版は同年9月)という報告書を提出した。この報告書では敗戦によって崩壊した日本経済の将来のあるべき姿を広くかつ具体的に提示し、その実現可能な実践のために「国民の参加」を呼びかけたところに大きな意義があるといわれる。

    戦後問題研究会では満州事変前の昭和5年(1930年)を基準年とし、当時の人口当たり諸物資の必要量を計算し、これに海外からの引き上げ人口などの人口増加分を加えて戦後日本の目標生産能力を算定した。昭和27年版日本国政図会によると、昭和5年の日本の人口は6420万人、昭和20年11月7200万人、昭和23年8月8022万人であった。これに対し昭和5年から9年までの平均物価に換算した国富は昭和5年10,186百万円が昭和18年13,862百万円と一旦増加したものの昭和21年には6,546百万円と半減し、昭和25年にようやく昭和10年の数字12,100百万円に回復したのであった。国内生産力の代表値として銑鉄生産高を見ると昭和5年116万トンが昭和19年265万トンとなったが、昭和20年の統計では50万2000トンであり、昭和23年に至っても84万トン余であった。石炭の国内生産量は昭和16年5560万トンであったが、昭和20,21年とも2255万トン台に低下した。これは炭鉱における生産効率が昭和10年以降極端に低下したためであり、昭和10年には労働力一人当たりの一日出炭量215トンが昭和20年には55トンにまで落ち込んでしまった。有沢広巳はこの深刻な状態を脱するために「傾斜生産方式」を提唱し、昭和21年12月閣議決定された。これは乏しいながらすべての資材を生産力の基本である石炭と鉄鋼の生産のために集中し、芋蔓式に国内の基礎産業の生産力を高めようという政策であった。傾斜生産方式の採用により国内出炭量は昭和22年2700万トン、23年3300万トンと回復した。昭和7年から11年の平均を100とする工業生産指数は昭和21年48.6から25年112.0と急速に回復した。この戦後経済回復のための一連の政策を積極的に推し進めたのこれは昭和21年に発足し経済安定本部であった。済安定本部は経済安定のための基本政策および緊急施策の企画立案、物価の統制などを担当した総理大臣直轄の行政機関であった。傾斜生産方式により経済の上向き傾向を掴んだ日本経済は昭和23年(1948年)以降不況に悩ませられるが、1950年に勃発した朝鮮戦争の恩恵を受けて再び成長のきっかけを掴むことが出来たのである。

    実際に自分自身の古い記憶の中に残る61年前の前後5年間に亘る危機に日本の進むべき道を探り、その推進の役割を演じてきたのは国の将来に深い憂慮を抱き、あの暗い時代に強い意思をもって困難を乗り越えた人達であった。現在の日本も60年前とは異なる形での危機的な状況にあると考えられる。60年の間に国民にとっての国家というものへの想いは大きく変わってきたようである。この危機を乗り越えこの国の将来を実りあるものとするために私たちの担うべき役割はまだ終っていないのかもしれない。
以上


2006年9月5日
                                  内田 安雄

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