1958年、東京工業大学理工学部化学工学コースを卒業、千代田化工建設(株)に入社した。青い背広にネクタイ姿で、東京駅前の東京ビル5階に本社があり、そこに通勤することになった。先月新たに建て替えられるまではそのまま残っていたビルである。初めの1週間はBarrowsが著わした"Project Engineering for Process Plants"をテキストに先輩が必要部分を取り出して説明してくれたことを記憶している。加えて化学プラントの計装について、(当時はプリントのみであったが後で日刊工業新聞社から出版された)講義を受けたが、大学の文献購読でプロセス制御の論文を読み、発表したもの異なり実用的かつ新鮮な内容であった。卒論のタイトルが放射性煙霧体の処理となっていたため、不本意ながら原子力関連の部署である化工3課という原子力関連の仕事を遂行する職務をもつ部署に配属された。まだ原研の国産炉が建設中の状況であり、原子力プラント関連事業が本格化していないことでもあり、唯一関西原子炉と称する実験炉の計画に関連した仕事があり、社長以下数名の社員に同伴して、はじめて京都に出張した。先方のメンバーの中に、後にプロセスシステム工学の分野で一緒に学会活動をすることになる高松武一郎教授(当時助教授)が会議に出席されていた。

    そもそも、なぜ千代田化工に入社したかに触れておくと、3年の夏休みに椎名君と工場実習で住友化学新居浜工場に行き2週間ほどそこに滞在し、硝酸ナトリウムの乾燥工程で着色することを防ぐ研究テーマを与えられた。四国の凪といわれる暑さの中で刺激もなく、その間に就職は東京に限ることに決めた次第である。4年の夏休みに千代田化工建設に実習にいき、廃棄物処理プラントのプロセスフローシートを作成することになり、興味がわいたこと、大学での森川清先生の化学工程設計(内容は、後に"化学工程要論"として出版された。)や葛岡常雄先生の木材糖化プロセスの演習などで設計などに関心があったことも手伝い、しかも東工大の先輩に昼食時にいろいろ教えていただいたことで、毎年化工から先輩が続けて入社していることが安心材料になり、入社しようかと考えるようになった。実習の終わり面接試験があり、終了後大学に帰ったところ合格の知らせが当時主任であった大山義年先生のもとに届いていた。まだ500名足らずの小さな会社で潰れないか心配であると懸念したところ、そうなったらまた探してあげるから就職しなさいとの話で入社することに決めた。

    毎日ぶらぶらしながら昼休みには東工大の先輩に連れられて有楽町あたりに食事に出掛け、コーヒーをご馳走になるという優雅な生活をしていた。

    半年ほどで新橋の第一ホテルの横にある三角屋根のビルに移ったが、ここでの思い出として、呉羽化学の五味真平氏からMITから帰国早々熱力学の講義を受け、米国の化学工学熱力学の実践的な内容に感銘を受けたこと、化学工学協会(当時)が主催した名古屋大学で3,4回行われたC, Chilton教授のプロセス設計の経済評価の講義に出席したこと、三菱レーヨンの中田君と再会し研究開発の話をしたこと、雑誌"化学装置" の創刊号に原稿を書くように当時の課長小暮賢一氏(高島先生と同期の先輩)から指示され、なにやら数学を使った流動層の話を書いたことなどが、深く印象に残っている。なお、先の雑誌への投稿はその後の方向を決めることになったように思う。当時、計算機を使っていたのは銀行や証券会社などで、社長はしばしば米国に出張していたことから、計算機の導入の必要性を感じて、社内にBA(ビジネスオートメーション)委員会を発足させたときに部を代表する委員に指定されることになった。米国の化学工学の雑誌には蒸留塔と熱交換器の設計プログラムができたなどの紹介記事が載り始めていた。委員会活動は計算機メーカーの選定に関するメーカーからのヒアリングや講習会出席と業務への応用に関する調査が主なものであった。調査結果から化学工学に関する設計には自動化よりは質の向上を目的とすることを報告したように思う。1960年にフォートランが出現しこれに基づいて最終的にIBM1620が選定、導入されたが、その処理能力は熱交換器1基の化工設計計算がやっとできる程度のものであった。その頃原子核工学の修得のために米国留学の打診を上司から受けたが、将来を考え辞退したように思う。

    1960年頃から石油化学や塩素系のプロセスを扱う業務が増えるにつれて、原子力関係の業務は一向に展望も開けない状況であったことから、化学関連業務を手掛けることになる。この分野で最初に担当した受注業務はN社のホスゲン合成と関連する溶剤回収プロセスの開発であった。設計から試運転までを全てを担当したことで自信を持つことができたこと、 プロセスの最適化に興味を持ちその後のプロセスシステム工学の研究を始めるきっかけとなったことは幸いであった。ホスゲン合成は一酸化炭素と塩素の反応を活性炭を触媒とする固定層型反応器で実現したが、当時は国会図書館にPBレポート(米国が戦後ドイツで調査し詳細な記録として作成した報告書)があり、この中に戦時中ドイツが毒ガスの製造に使ったものが報告書になっており、これを参考にした。また溶剤回収プロセスは吸収・ストリッピングの典型的なプロセスで後にミネソタ大学で修士論文に対象プロセスとして取り上げたものである。

    1965年頃、次の受注業務はA社と共同研究を行い実用化したメタン塩素化のプロセス開発であった。メタンと塩素から4種類の塩素化化合物を所望の割合で求める流動層型反応器を工業化したが、直径2メートルの実験用装置で動特性を測定し、多段間然混合モデルによる反応器の設計データーとして利用する方法をとった。実用化プラントが完成する半年前に社命留学でミネソタ大学にいくことになり、試運転の経験をすることはできなかったが、この業務で反応工学についてかなりの知識を得ることができたように思う。 この間、社内のBA委員会ではプロセス設計に数名のメンバーが関係し蒸留塔の設計プログラムや簡単な物質収支計算などのプログラムが開発されており、社内報にこれらの計算アルゴリズムやフローチャートを技術報告として投稿した。赤坂のホテルニュージャパンの前に千代田ビルが完成し、そちらに職場は異動していたが、このビルの1階に大型のアナログ計算機が設置され、当時東燃の出山君がこれを使っていたように記憶している。この頃からシステム工学を化学工学や制御工学へ応用する動きが現われ、東工大市川惇信先生の教えを受ける機会が増えていった。先生とは共同執筆の論文も多く、先駆的な研究の取り上げ方など直々にご指導をいただけたことについて深く感謝している。大学と企業での立場に違いと仕事の仕方について最大値原理の証明の難解さへの対応を通して理解できたことは後に大学人になった折大変参考になったことを思い出す。大学4年のときに労音と称する古典音楽を鑑賞する教職員と大学院生、学部学生で構成されたサークルが学内にあり、そこで大学院生であった市川先生と知り合うことになって以来、現在まで種々の機会にお目にかかり、ご指導をいただいている。

    1966年夏から2年間はミネソタ大学で授業と研究に従事し、特に1年目は今までとは著しく異なる生活体験をしながら、化学工学に関する本格的な数学と移動現象論の勉強に没頭することとなった。なお、ミネソタ大学を選ぶに当たっては市川先生や卒業研究の指導を受けた高島洋一先生のご助言を受けた。留学中は、周知のBird他共著の"Transport Phenomena"(1960年発刊)が米国大学院の化学工学専攻での標準的な教科書になっており、従来とは異なる理論的な化学工学の動きに魅せられ、苦しみながら勉学した。大学4年の頃に"Notes on Transport Phenomena" を手に入れていたことと、高島先生の授業のガリ版プリント作成を通して流体力学に興味を持っていたことが大いに役に立った。ミネソタ大学を選んだきっかけは、1960年代前半システム工学やベルマンの最適性の原理(ダイナミックプログラミング)、ポントリアギンの最大値原理などに関心が寄せられており、化学工学への応用も行われつつあったが、その中にミネソタ大学のAris教授がおられ、研究指導を受けることを希望していた。修士論文は、先の吸収・ストリッピングシステムの最適設計をテーマに選び、探索法の一つM.J.Box法によって最適解を求めた。この方法は後にコンピュータの処理速度が飛躍的に向上するとともにプロセスの最適設計に関する有力な手段になった。大学院におけるコースワークの思い出としては、1-年間で終了させるべく、大学受験以来の相当の時間を費やしたこと、博士課程向けのテストに合格しチーチングアソシエートになると先生方の態度が変わってきたこと、化学工学の数学で線形代数や微分方程式論、数理モデリングなどの理解が深まったことなど、があげられる。 1966年夏に帰国し、千代田化工では研究開発本部システム技術、プロセス技術など開発関連部署に配属され、プロセス設計・制御関連技術の開発、汎用ソフトウエア開発の業務及び管理を担当した。4年間の奨学金をもらえながら帰国したこともあって、その後2年ほど東工大市川研究室の研究生になって業務遂行の合間に大学に行き研究をしていた。この後、20年余り研究報告や論文の投稿が部単位で実施され、プロセスシステム工学の分野では、海外にも千代田の名前が知られ、海外の国際学会などでは、同僚の多くが論文発表を行い、多くの知人が米国、欧州にできることになった。

    主な研究活動としては、1967年に化学工学会"最近の化学工学"で最適化について発表する機会を得た。これは東工大井上一郎先生の援助の賜物であった感謝している。米国化学化会の雑誌IEC RD&Dに修士論文の研究が掲載された1969年はその後の研究活動の先べつをつけた意味で記念すべき年になった。1960年代前半はプロセス解析が主流であり、後半からプロセス合成の研究が主として熱交換システムの最適構成問題が取り上げられた。市川先生の研究室との共同研究では、線形計画法を適用した熱交換システムの最適構成、最大値原理を適用した一般プロセスの最適構成論などが論文として出版されている。1972年初めて米国化学工学会での発表を行ったが、出発直前まで市川先生と当時化学工学の英文誌の英語を洗練させる仕事をしていたM.マカビー氏の前でリハーサルをしていただいた。この会議でスタンフォード大学のWild教授やMITのPowers教授などと知り合いになった。この年、市川(主査)、高島、井上、明畠高司、寺野寿郎の諸先生が論文審査委員になり、1月6日に公聴会を開催され、審査後、工学博士の学位をいただいた。論文は"The Optimal Design of Chemical Processing Systems"、公聴会では、井上先生から"君の独自の設計論はどんなことか"、という趣旨のご質問があったことを今でも記憶している。

    1989年、千代田化工を退職し大学へ移るまで、同僚と共に種々の研究を行い、それらの研究成果を発表することができた。全てをここで記載することはできないので、印象に残っている論文テーマをいくつか取り上げることにする。 1970年代前半はプロセスシミュレータ(CAPES)、システム分割による最適結果の理由付け法、理論的なプロセス合成方法論の展開、1970年代後半は熱力学第2法則を利用した熱交換システム構成、多目的最適化問題、線形計画法の理論解を利用したエネルギー関連システム合成問題、制御システムの構成問題、1980年代前半は1982年京都で開催の第1回プロセスシステム工学国際会議キーノート・スピーチ"コンピュータ支援プロセス合成"の展開に始まり、スチーム・パワーシステム合成問題、1980年代後半は人工知能分野のエキスパートシステム、知識ベースシステムの応用、自律分散システムの構想つくりなどの研究と成果の発表を行った。これらの中で経済性を織り込んだ工学的かつ単純明快、理論的背景もしっかりしており、美しい研究と自負しているものは、その後Linhoff教授によってピンチテクノロジーと呼ばれる方法になった熱力学第2法則を利用した熱交換システム構成の研究である(Pinchという表現は英国のHeywood教授の熱力学の書籍で使われているものを引用したが、今ではほとんど知られなくなった。1999年12月号Chem.Eng.Progr.に"Don't Let the Pinch Pinch You"と題する論文がある。20年前に行った我々の研究について、"Keep it Simple" の重要性を評価してくれた論文がある。ご参考まで) 1968年以降東工大を初め京大、静岡大、山形大、東農工大などでプロセスエンジニアリングの非常勤講師を務め、設計の経験と研究成果を織り交ぜ、プロセスの合成・設計・最適化を主軸とするシステム思考を基礎において講義と演習を行った。東工大では井上先生、静岡大では(故)小出君、東農工大では漆山君の推薦によりこのような機会を得たことに感謝している。講義内容の一例は東工大化工会会報(1984.10.1、No.16)に紹介されている。特に井上先生は理研から東工大に来られ、授業終了後毎回のように有益な交流をしていただいたことは忘れることができない。1979年 には、ミネソタ大学に招かれて1週間のプロセス設計に関する特別講義を行ったが、このことは英語での講義に多少自信を持てるよい経験になった。共著で"プロセスシステム設計"を執筆し、大学での講義に使用したが、最近の学生では考えられないほど高度のもので、時代の違いによる学力差を感じさせられる。なお、1976年から2000年までプロセスシステム工学の国際的な研究活動を掲載する雑誌Computers & Chemical Engineering誌のアソシエートエデイターを発刊当時から務めたが、京都での第1回会議以来3年ごとに開催される国際会議には時折参加しているが、この間研究動向も大きく変化しつつあるように感じられる今日この頃である。 1989年筑波大学社会人大学院経営システム科学専攻に移って研究と教育に関わることになり、昼間中心から夜間中心の生活へ変更した毎日が始まることになった。わが国初めての専ら夜間に講義と研究指導を行う社会人大学院であり、教官が役割分担して企業訪問することになったことから、日立の大橋君や富士フィルムの近政君を訪問し、応募に対する働きかけを行った。1990年春にはMITに3ヶ月滞在する機会を与えられ、マネジメント研究に多くの時間を割き、スローンスクールの教授たちとの交流や図書館通いなどで充実した日々を送った。経営学の諸先生との交流や共同で行った研究指導によって千代田でのマネジメント経験と経営戦略論や管理論と関連がつき、エンジニアリングとマネジメントの統合化への関心を持つきっかけとなった。1995年、千葉工業大学に移るまで、化学工学に関連する研究は化学工学会プロセスエンジニアリング特別委員会や経営システム委員会の委員長を務め、当時注目された次世代化学プラントを共同執筆(培風館)した。またコンピュータ統合生産システム(CIM)にかかわる製販統合マネジメントと生産活動の研究を行い、1991年カナダで開催されたプロセスシステム工学の国際会議で生産システムの価値システムデザイン・評価の研究発表を行った。1993年頃には経済成長と環境保全の同時達成に関心が集まり、文部省科学研究費補助金研究でライフサイクルマネジメントやエコデザインなどの研究成果を報告した。当時富士フィルムからワン・ショト・カメラ、写るんです、が発売され、近政君のアレンジで小田原工場の見学をしたのを記憶している。Design for the Environment の和訳や環境重視の設計論を展開し始めたのもこの頃である。1995年11月千葉工業大学工業経営学科に移り、経営工学専攻が発足した。1997年にはわが国で初めてプロジェクトマネジメント学科の設立やプロジェクトマネジメント学会発足に関わった。1998年には化学装置誌が発刊40周年を迎え、記念号には"化学産業関連のエンジニアリング"について執筆したが、創刊号に執筆の機会を与えられてから40年が経過したことを思い起こしたものがあった。千葉工業大学では専攻主任、学科主任、学部長、2002年度にはプロジェクトマネジメント学会長を務め、2003年定年退職した。この間、文部省科学研究費補助金による自律分散型生産システムの構築論やプロジェクトマネジメントの数理的研究、と高度技術社会における環境対応などを含め、種々の研究活動を行ったが、社会科学分野の研究方法にも関心を持って科学哲学について勉強したり、今までの修士論文や卒論を中心に"経営システム工学:研究の進め方"(培風館)を執筆、プロセスエンジニアリング特別研究会のメンバーと"次世代化学プラント"( 培風館)をまとめた後、マネジメントとエンジニアリングの統合化を目指した研究活動を今も続けている。1969年以来、久し振りに単著の論文"経営戦略に合致したプロセスシステム合成"について、IE&CRに投稿し掲載された。最近は、経営重視のエンジニアリング方法論をまとめたり、サステナブル経営の実現に向けて研究活動を行いつつある。(ここでは、東工大化工33年卒を意識して化学工学中心の履歴書にした。原稿の執筆中にAris教授の訃報(11月2日没)を1ヵ月半後に受け取ったので、この内容を伝えられないことが残念である)

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